お墓の歴史
人間が死者を埋葬する習慣を待ったのがいつの頃か、正確にはわからない。ただ、母猿が死んだわが子の遺体をいつまでも不離さないように、人類の遠い祖先―例えば猿人(ホモ・ハビリスなど三百万年前から二百万年前)たちが、自分に親しい死者の遺体をそれなりに充分に尊重していただろうことは推測されこれが原人(ホモ・エレクトウス、百五十万年前から五十万年前)の時代、特に火を使った遺跡を待つ北京原人などになると、明らかに住居としていた洞穴の奥に、人骨を保存していて、死者と生者とが何らかの意味で、ある共生関係を待っていたことが示されています。そして、人類学的にもう一歩進んだ旧人(ネアンデルタール人、五十万年前から三万年前)の時代になると、イラク高地のシャニダール洞窟(約六万年前)の例では、遺体に上がかぶせられ、七種類ほどの草花が供えられていたという明らかな埋葬行為が行われています。私たち人類(新人、ホモサピエンス・サピエンス、五万年前以降)の直接的な祖先ではないかもしれないシャニダール人ですが、実に優しい心映えを示しており、その行為は、すでに現代人のものと何の変わりもないということが知られます。
また、同じネアンデルタール人の埋葬で、生前に使用していたとみられる石器が副葬されているケースも発見されており、この場合などは、あるいは、この時代の人類が、すでに死者のための死後の生活を想っていだのではないか、ということを考えさせられるケースになっています。
しかしながら、旧人・新人ともに、いわゆる旧石器時代に属する人類の埋葬遺跡には、特に墓といえるような外形的な特徴はありません。むしろ、この時代に共通な性質は、ほとんどの場合、生者の生活跡とともにあるということであり、生者と死者は常に同時的に共生関係にあったとも考えられます。いいかえれば、死者と生者の区別はあまり意識されていなかったともいえるでしょう。
これに対して、はっきりと死者の世界を考え、そのための「場」と「標」を持つ墓をつくるようになるのが、農耕牧畜生活を営むようになった新石器時代(約一万年前以降)です。
春に種を播き、秋に収穫するといった農耕生活では、狩猟採集のその時その場の暮らし、を繰り返す旧石器時代人に比べて、時間の流れを区切って意識するようになり、また、その区切られた時間が繰り返し繰り返し連続していくことを理解するようになります。そうなれば、当然のこととして、生者として連続する時間のその先には、死者になっても連続する時間の世界があるであろうことは、容易に想像されるようになるわけで、ここに「他界思想」の芽生えが出てきます。そして、死者には死者のための世界があるとするなら、そのための「場」がなければならないし、その場を示す「標」も必要になってくるということになるはずです。事実、この時代から、死者の埋葬地は、生者たちの生活圏から離されて、ある特定の地城(墓域)を持つようになりますし、そこに死者が棲んでいることを示す構築物が、石や土で地上につくられるようになります。
例えば、わが国の新石器時代である縄文時代には、北海道から東北にかけて、環状列石(ストーン・サークル)の墓地遺跡がみられます。これは、シベリアからヨーロッパ大陸へかけての北方文化の流れが、わが国にもあったことを示す例ですが、旧石器時代からの狩猟採集生活を続けていた縄文時代人は、総じて生者と死者との共有空間に、特別な標もなく葬られているのが普通です。
これに対して、今日の文明の基盤をつくったといわれる農耕文化の社会となった弥生時代になると、「方形周溝墓」といったように、わざわざ四方に溝をめぐらした墓地を設定したり、あるいは、谷川をぱさんだ川向うに、死者の世界である墓域を設定するといったように、生者と死者とのすまいの揚が分離されるようになります。また、死者を埋葬した場所の地上には、多少の土盛りが半円状または台形状にほどこされたり、あるいは石が置かれたりするようになるのです。つまり、私たちが使用している「墓」という字は、「土を覆いかぶせる」という意味を示す形で作られた漢字なのですが、ちょうどこの状態を示している文字に当るのです。
ところが、農耕社会の発達につれて、権力と富の階級分化がはじまると、死者の世界にも、より大きなすまいに棲んでいることを示すより大きな土盛りの墓、「家、チュ、チョウ、塚の古字」が現われ、更に大きな権力を示すためにより高く礎かれた墓、「墳フン」が現われ、ついには、王族の墓の場合に使用される字、巨大な丘を意味する「陵リョウ」にいたります。
歴史的にこれに当る時代が古墳時代であり、通称「応仁天皇陵」は、まさに世界最大級の丘陵墓の典形ですが、このような外形状の発達に対して、死者のすまいとしての墓の内部も形を整えられていきます。つまり、石室とか石廊とかが構築されて、死者のための空間が地下に用意され、さまざまな副葬品によって死後の生活が保障されることとなり、また、死後の世界の様子を示す絵や彫刻などで飾られることになってくるのがそれです。能本県に代表的にみられる装飾古墳、あるいは、近衛軍団七千騎を丸ごと実物大につくって副葬したという秦の始皇帝陵などはその典型的な例だといえるでしょう。いずれにしても、この時期、人間にとっての墓の意味と規模は極限に達したわけです。
こうした墓の発達は、もちろん、人間の死についての考え方の発展と無関係ではありません。
例えば、陵墓として極限にまで発展した代表例の一つであるエジプトのピラミッドなどは、いわば、時間の積み重ねで営まれる生者の世界のその先には、もはやきりをつけることのできない無限の繰り返しの時間となる死者の世界を考えたとき、そこに「永遠の時」が観念され、その表象としての形であるピラミッドが生まれたとされています。
また、一方では、死者の生活といえども、そこには一種の社会があるはずで、それは一つの世界として、あるいは一つの国として観念されるようになり、生者のこの世界と同じように、どこかに在るものと考えられるようになっていきます。つまり、それが海の彼方であったり、山の彼方であったり、現実に知られた世界の辺境の洞穴から通じていく世界であったりして、いわゆる黄泉の国や冥府、あるいは蓬来山などといった形で想定されるようになったということですが、死者を弔うことを「葬送」の儀式として行うのも、こうした他界思想が生まれて、死者をしてこの他界に送り出すという考えに立つようになったからです。
そして、もう一つの重要な考えは、人間が死んで肉体を失うことは、目に見えない存在になることであると同時に、肉体の束縛から解かれて自由になることであり、それは超人間的な活動をするもの、つまり「霊」なのだという考えが育ってきたことです。霊の持つ超人間的な力を恐れ、そうした霊を慰めようという儀式、祭りが原始宗教の世界に現われるのもそのためです。
いずれにしても、このように死後の世界は、永遠であり、しかも、その世界は、時空を超えた人間の霊のみが行くことのできる、ある特別な世界だと考えられるようになったとき、人間は、そこが、より望ましい世界として幸福を約束された世界であって欲しいという期待も当然抱くようになるでしょう。
エジプト、メソポタミア、インドなど古代文明が極限に達し、やがてそれが衰微する頃、こうした人間の期待にこたえる思想をたずさえて登場してくるのが、仏教やキリスト教といった世界宗教です。これらの宗教は、人間の死後の世界もまた、神のつかさどる国ないし仏の済度する世界であることを説き、それ故に、神なり仏なりへの帰依を通じて、この世界の至上の幸福が約束されるという、いわゆる「霊の救済」を提示したのです。つまり、ここに「天国」や「浄土」といった世界と、それにつれて考えられるようになった「地獄」というような他界観も生まれてくるのですが、当然、こうした他界観の宗数的発展は、墓についての考え方も変えさせていくことになります。
というのは、これらの宗教によれば、人間の霊が、いかに神の国なり浄土なりに往生するかが問題になるのであって、遺体をとどめる墓そのものは、さして重要でなくなるからです。事実、仏教にしても、キリスト教にしても、またイスラム教にしても、特に墓についての規定は設けておらず、一般的にそれぞれの地域の習俗にまかせていたのが実状です。例えば、もともと火葬が伝統的な習俗で、輪廻思想が強いインドで成立した仏教は、墓についての関心そのものが薄く、ただひたすら死者をして仏の手で救われることを祈願するための供養を行えということを説いています。したがって、墓そのものよりは、死者のために仏を供養したという証、もしくはその表象である供養塔が重視されるのです。
仏教が歴史的社会的に最も大きな影響を与えたわが国でこれを見ていくと、まず指摘されることは、飛鳥時代以降の仏教導入とともに、それまでの大がかりな墳墓の構築を禁じた「薄葬令」(六四六年)などを通じて、墓そのもののスケールが小規模化していったことです。また、火葬の風習が支配階級に定着していくことからも、墳墓の規模はスケール・ダウンしていきます。
しかし、仏教がまだ国家宗教の色彩が濃い平安時代までは、個人的な霊の「場」である墓の形態にまで影響を及ぼすことは少なく、いわゆる「墳墓」「家(塚)墓」の伝統的形式が受け継がれています。ただそうした中で、平安末期、いわゆる末法思想の流布から死後に安心を求める浄上思想が台頭してくると、墳や塚の墓の上に、追善供養のための卒塔婆が建てられるようになってくるのです。もともと卒塔婆は、梵語のストゥーパからの音訳とされていて、仏の舎利(火葬骨)を納めて礼拝の対象とされていた半円状の高塚であったものが、次第に多層の石塔(九重塔、十三重塔)や木造塔(三重塔、五重塔)に発展したので、これを仏と関係のある場所に建て、陀羅尼経(仏の教えの精粋を呪文化した経)を納めて供養し、礼拝すれば、功徳があるという思想から、墓上にも建てられるようになったのです。この卒塔婆には木製と石製のものがあり、また、五輪石塔にしたものも見られます。五輪塔は、宇宙そのものの体現者である大日如来を中心仏と考える密教で、その宇宙の表象としての五輪の形(地輪、水輪、火輪、風輪、空輪)を宝塔化したものとされていて、平安時代から供養塔としてつくられていたもので、これが後に墓標化していきます。
また、こうした供養塔には、宝篋印陀羅尼経を納めた塔としてつくられた宝篋印塔や、釈迦と多宝如来(釈迦入滅後に、法華経の真理を証明する仏)が並座する多宝塔などがあり、いずれも、鎌倉時代以降に墓石化していくことになります。
ところで、本来、供養とは死者のために行う一回性のものであって、供養塔ももともとはある時ある場合の供養のための塔でしかなかったのですが、次第に、仏への供養によって加護を得た死者として、浄土にあることの証とみなすようになるのも、人間の自然な考え方です。そうなれば、この供養塔は、恒久的なものにしたいと考えるようになり、形も大きなものにしたくなっていきます。そして、その反面、墓であることを示していた塚や墳は、実質的な意味を失って後退しはじめるのです。どっちみち、そこに遺骨が埋められているとしても、かんじんな死者の霊は、仏の浄土にあるのですから、成仏したことの表象である塔への礼拝が、とりもなおさず死者への祈りに通じるということになるからです。この点、多少時代は下るようですが、関東を中心とした江戸時代に多く行われた墓に、両墓制というのがあり、遺体を埋めた墓と祖霊として詣る墓とをはっきり分離しているケースがみられます。地域によって、その発生原因はさまざまなようですが、遺体を埋葬した墓は墓として持ちながら、成仏した霊は霊として詣でる墓を別に持つということは、そこにある独特な宗数的思考が働いてはじめて可能になったものとして注目されます。
仏教の浄土思想から展開してきた墓塔を中心とした中世時代の墓は、いわゆる民衆仏教として鎌倉時代に生まれ、室町末期にはほぼ全国的な範囲で庶民に根づいたと考えられる浄土宗や浄土真宗、日蓮宗や禅宗によって、また一つ大きな変化を生み出します。
というのは、浄土真宗に典型的にみられるように、念仏することがすなわち成仏することだという教えは、死者はすべて仏になるという観念を庶民の間に生み出すことになったわけで、いわゆる伝統的な祖霊崇拝の感情と崇仏とが共存する形で信仰が進められることになっていくことになったのです。
例えば、本来、仏だけのものであるはずの仏壇に、新しく仏となった死者の位牌を合せてまつるといったことが行われるようになったのもそのためであり、墓石についての考え方も、それが供養塔の意味を待つものである以上に、死者が仏になったことを直接的に証明することを期待するようにもなってきたのです。つまり、庶民が経済力を比較的大きく待つようになった江戸時代の元禄期以降に急速に増えてくる一般庶民の墓石をみていくと、そのほとんどが、仏壇に安置して朝夕礼拝している位牌、いいかえれば、仏像と同じような蓮台の上に戒名をしるした仏と同じ形の墓石、あるいは、仏壇そのものを簡略に型どり戒名を付したもの、更には、仏像そのものを刻んで戒名を副えたものなどがつくられるようになったのがそれです。
いうならば、仏の加護の証としての塔ではなくて、それ自身が仏として礼拝の対象となる墓石という形に変質していったといえましょうか。それ故、この時代の墓は、それぞれがそれぞれに戒名(仏弟子としての名)を持つ個人墓が原則(夫婦墓の例はあるが)となっていたのです。
ところが、明冶時代以降の近代になってくると、こうした庶民の墓は、一層大きく変化していきます。近代的な合理主義がわが国に浸透してくると、仏教に対する信仰性が弱まり、それに比例するように、墓石の形が本来の意味を理解させないほどまでに簡略化されてきたのです。もともと石加工の技術をそれほど要しない位牌型の墓が主流を占めていた庶民の墓ですが、それが次第に蓮台を失い、唐草を失い、すべて直線で構成される三役積みの墓塔に変化してきています。
しかも、それ以上に重要なことは、明治末期頃から、本来、個人墓としての意味とその形を持っていたはずの墓が、次第に○○家之墓といったように家族墓として建てられるようになってきたということがあります。ということは、いうまでもないことですが、宗教的にはこの形はたいして意味がないということになりますし、まして仏の座を示すはずの戒名に替えて、ただ○○家之墓という説明の表示でしかない文字をそこに刻んで礼拝の対象とすることは、多少こっけいな感じがしないでもありません。
いずれにしろ、こうした伝統的な墓石の持つ精神的な面での希薄化が、今日、いわゆる洋墓と呼ばれるような、形それ自体には特に意味のないものを普及させている下地になっているといえるでしょう。そして、それらは、非宗数的で中性的であるだけに、かえって近代感覚にかなったスマートさとして喜ばれている面もあるようです。
にもかかわらず、どうしても気になることが一つあります。
それは、それでもなお、人間は死に向うとき、自分が眠るべき場所に、さまざまな想いを描き、さまざまな想いを込めるだろうということです。そして、今までの人間が常にそうであったように、そうした想いをかなえた墓をつくろうとするのではないか、ということです。そして、そこで更にいえることは、そうした人間の死への想いは、すぐれて精神的なものだけに、そこに実現されるべき墓もすぐれて精神的な表象となってくるのではないか、ということです。
今日の近代人、私たちにとって、ほんとうに望ましい墓は、これから創造されていくことになるのだというべきかも知れません。
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